現代語訳『三州奇談』 その29「瀬領得甕」(巻之四)


現代語訳『三州奇談』 その29「瀬領得甕」(巻之四)



堀麦水による『三州奇談』は、近世中期に成立した加越能の奇談集である。

今回はその29「瀬領得甕」(巻之四)の現代語訳である。









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瀬領は金沢の東南の、山に入ったところにある小さな村である。この里の出で、折違橋付近に住んでいた八右衛門という男がいて、金沢の町中に月頭(暦)を売り歩いて暮らしを立てていた。



元禄の頃、瀬領の里でひとつの甕を掘り出した。この甕は水を満たして慰みにするものであって、金沢で売りに出していた。この八右衛門は瀬領の出身であったので、まず瀬領を手始めにして、その後、方々で売り歩いていたが、釉薬が全部はげていたので、買いたいという人はいなかった。



あるとき、それを菊地秋涯公が求めて、庭にすえて水をたたえていたが、その持ち主が八右衛門であることを聞いたが、彼は百姓ではなく、暦を売り歩く身分のものなので、その甕も汚らわしいといって、捨ててしまったことがあった。



そこでこの八右衛門が何者であるかを、詳しく調べたところ、それまで人々があれこれ言っていたこととは、まったく違っていたのである。



それはこうだった。むかし(織田信長旗下の)佐久間盛政が(一向宗が立てこもる)尾山城を攻めたとき、攻撃を受けた城が、これをよく防いでいた。そのとき地元の瀬領村の者たちは佐久間側について、計略をたてて小立野方面から攻め込んだところ、たちどころに落城した。



そこで佐久間盛政は瀬領村のものに褒美に何が欲しいかと尋ねたところ、今後金沢城下でものを売り歩く者の頭にしてもらいたいと望み、盛政がその旨、証文を一筆したためて村人に渡した。この証文は今も村人の何某がもち伝えているという。

そのようなことがあり、現在暦を売っているのは、わずかにその名残りであるといわれている。



ところで年毎に、萬歳が越前雛が嶽のふもとからやってくる。これも、普通の百姓ではない者のようである。越前においては、これらの者と、どこの村でも縁組をしないときいている。ある年寄りがいうには、これは普通の百姓だというが。



元和元年、世の中が穏やかな時、三河の者たちが、家康公のもとにいる百姓だといって、江戸へ出て祝い事を申し上げ、田舎謡いの幸若を披露して、引き出物をもらっていたが、これがあの三河万歳のはじめである。



これと同じように、越前府中でも、雛が嶽のふもとの者どもが、加賀利家公の領内の百姓であるといって、金沢城下に行って祝い事をして、酒飯などをもらったうえ、里踊りや小舞をすることが始まった。それが今の世では、別筋の者(賤民)のようになった。

狂言に「丹波の国の御百姓の名を何と申すぞ」と云う類が、これである。  



諸本にはいろいろの説あるが、どれもこじつけの説だといわれる。










以上が『三州奇談』その29「瀬領得甕」(巻之四)の現代語訳である。





明治廃藩の際までは、舞々三太夫とて、年頭・五節句等の佳節には、金澤市中武士・町方共に毎戸へ来り、祝儀を貰い行きけり。大身の武士にては舞も舞いたる由。其の体実に乞食の如し。藤江村の人別なれども、田地も持たず。所詮頭振の百姓にて、僅に祝儀を貰い渡世するのみなりし故、今に至り藤江村に居住すれど、貧窮にせまれりとぞ。

 (金沢古蹟誌 第十編 巻26「池小路舞々大夫傳」金沢市図書館 ) 



舞々をはじめ様々な芸能者が賤民とされていたときの一話である。

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