現代語訳『三州奇談』 その30「陰陽幻術」(巻之四)


現代語訳『三州奇談』 その30「陰陽幻術」(巻之四)





『三州奇談』の現代語訳、その30は巻之四の「陰陽幻術」である。

この話は、江戸時代の金沢城下にいて不思議の術を示していた、幻術者や陰陽師のことを語る一編である。








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宝暦(一七五一‐一七六四)のはじめ、浅野川博労町に高田大林坊という幻術者がいた。この男の素性は、越中関野の百姓の子であった。

十一歳のとき、父母の許可をえないで伊勢神宮に抜け参りをしたのだが、近江の愛知川から怪しい僧侶と行動を共にして幻術を覚えた。最近では腰に刀を差して金沢に来て、陰陽師となって町をうろついていた。



大林坊は、奥村家に召し抱えられている武田兄弟などと同郷であったので、そのよしみで、彼の近くに家を借り、付近の若者たちに幻術をみせるようになった。どれもなかなかの技で、曹操に仕えた左慈や管輅のようであった。



例えば池のほとりにいるだけで、鯉や鱸を捕まえたり、水を汲んできて、それを酒にしたりした。また草花は時節外れに開き、珍しい鳥が突然やってきた。さらに馬を呑み込んだり魚の荷を鼻の穴に入れるなど、人が望むとおりのことをかなえたのである。

そのほか失くしたものがどこにあるとか、家出人の居場所をいいあてたりもした。顔のいぼやほくろをとるときには、その人から三、四尺離れて手拍子を打つと、とることができるのだ。



そのころ主計町の二俣屋喜兵衛の使用人で三助という者が、銀五百目を盗んで逃亡したが、ある技をかけると、三助は銀をもって本家に帰ってきた。

人々はこのような大林坊を鬼神のようだと思って恐れていた。



しかしながら大林坊は貧乏であった。そのうち法に背くことをして、越前に追放されてしまった。





また貞享元禄のころ、高岡瑞龍寺の灯司に天説という怪しい僧がいたが、その素性はよくわからなかった。時々金沢にやってきて、京都や大坂のようすを話した。そして相場の上がり下がりや諸国の米の出来不出来の判断をしたが、それはきわめて正確であった。

こんなことがあったので、道願屋木端という人が、この者を招き入れたところ運に恵まれ、多くの金銀を手にすることができた。



天説はある日、島屋久兵衛という者の家に招かれた。その席には富田氏、堀氏が同席した。そこには「屋島の戦」の屏風があったが、その座にいた人は、お前の妖術で何とかこの屏風に描いてある侍を、生きているように見せることはできないかといった。

天説はいともたやすいことだと引き受けて、二十九日の新月の夜、泉野の六道林というところへ皆を連れてゆき、夜半まで待たせておいた。

すると丑の刻になると泉野の作食蔵(さじきぐら)の森の上から光がさして、東から西まで明るく輝き、兵船数百艘があらわれ、一尺ほどの人が数百人、甲冑をつけて東西に行き交い、屋島の戦いのようすを、人形を操るようにあらわしてみせた。午前五時半ころになると、合戦は消えてもとの闇夜に戻ったという。

天説が、その後どうなったかは知らない。





そのほか、金沢にはこのような人はたくさんいた。若林信子という医者は、使用人を使わずに、朝夕の戸の開けたて、門の掃除、台所の支度まで、みなすることができた。



このような人はまだまだ多くいた。

最近京都に、金聖散という薬を売っている兵部という者がいた。彼は公然と幻術を教えてやろうという。彼が教えるのは陰陽五行を、万物に当てはめることである。


「六甲山とて文字別にあり。これを習えば人に三官あり。これを上家とす。狐に三官を与ふ。キヨセツロククソンと云ふ。目のあたり気狐・金龍を遣ふ。一人を忽ち両人となす。」



兵部は、いまもなお京都に住んでいて、不思議な者だと皆はいっている。この後のことを聞いて、書き足したいと思う。









以上が、『三州奇談』巻之四の「陰陽幻術」である。

江戸時代の金沢城下には、いわゆる幻術者といわれるあやしいものがいて、人の目をくらます不思議な術をかけていたことが語られている。

その現場にいて、ようすをみてみたいものであると思わせる。



「屋島の戦」のところに、「作食蔵(さじきぐら)」がでてくる。

加賀藩では、窮乏する農民に対して「作食米」と呼ばれる米を貸し付け、安定した農作業を勧奨した。この作食米を納めたのが作食蔵である。



話の最後に出てくる京都の兵部のところで、カッコ内については難解であるので、原文のまま示しておくことにした。

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