迷子 ストレイ・シープ


迷子 ストレイ・シープ




夏目漱石『三四郎』を読みました。

以前はどちらかというと、そんなに好みではなかったのですが、このところ『三四郎』が好きになって、よく読んでいます。



メモをみると、2017820182201911に読んでおり、漱石のなかでは一番回数が多くなっている作品です。



漱石のこの青春小説が何ともいえず好ましく思うようになってきたのです。

三四郎は理解できますが、彼が翻弄される女性・美禰子の気持ちがよくわからないので、もう一度、もう一度ということになる一面があるのです。



作中には、「広田先生の「あの女は落ち付いて居て、乱暴だ」という 言葉と、与次郎の「ええ乱暴です。イプセンのような所がある」という相槌に対する「イプセンの女は露骨だが、あの女は心が乱暴だ」という広田先生の反論がありますが、ここが難しいところです。



美禰子は、その点は、今回も理解できませんでした。






読んでいて面白いと思ったことを箇条書きにします。



   汽車の中のことー弁当を食べ終わって「三四郎は空になった弁当の折を力いっぱい窓から放り出した」。昔はこんなひどいことを普通にやっており、私もやっていました。



   汽車の中で「隣に乗り合わせた人が、新聞の読みガラをそばに置くのに借りてみる気もしない」というところ。むかしは、ちょっと貸してくださいと、新聞を借りることは珍しいことではありませんでした。それどころか、隣り合わせた人と、何かとよく会話をしたものですが。今は昔です。



   汽車の窓から、富士山を見るシーン。

「あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものだから仕方がない。我々がこしらえたものじゃない」。

 『三四郎』について何か書くたびに、必ずこの一節にふれてしまいます。



   「学年は911日に始まった」

現在日本では、大学の始業を欧米と同じ秋にしようという議論がされていますが、明治41年のこのころは、官立大学・高校は9月始まりだったことがわかります。4月始業となるのは大正10年(1921)年度から。ただし東京帝大だけは、大正9年度からだと、注釈にありました。



   そして、あの美禰子が発した「迷える子 ストレイ・シープ ー解って」。

「美禰子は石の上にある右の足に、身体の重みを託して、左の足でひらりとこちら側に渡った。あまりに下駄を汚すまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢いで美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。「ストレイ・シープ」と美禰子が口の内で云った。三四郎はその息を感ずることができた」。



青春小説らしい一節ですが、ここは漱石の小説らしい、また読む人によっては、らしからぬところです。





なお、『三四郎』という題名の決定については、明治41年8月と推定される東京朝日新聞社の渋川柳二郎宛書簡に、



「題名―「青年」「東西」「三四郎」「平々地」「/

右のうち御択み下されたく候。小生のはじめにつけた名は三四郎に候。「三四郎」尤も平凡にてよろしくと存じ候」と、注にあります。



『青年』では、鴎外のようになってしまいますが、漱石はこれに限らず題名にはあまりこだわらなかったようです。





この書簡には「『三四郎』予告」の稿が示されており、『東京朝日新聞』 明治41年8月19日に掲載されました。



また漱石は、『三四郎』(明治四十一年九月一日〜十二月二十九日)の連載にあたり、819日に次のような予告を発表しています。



「田舎の高等学校を卒業して東京の大学に這入った三四郎が新らしい空気に触れる。さうして同輩だの先輩だの若い女だのに接触して、色々に動いて来る。手間は此空気のうちに是等の人間を放す丈である。あとは人間が勝手に泳いで、自から波瀾が  出来るだらうと思ふ」。



作品世界に放たれた人物の筆頭は、当然三四郎なのですが、それと同じくらい美禰子の存在が重要だと思います。





それにしても漱石の時代から現在まで、いかに多くの若者が東京を目指していったことか、私もその一人ですが、田舎から広い世界に出て、随分と多くのものをみたように思います。



金沢の田舎から東京に出たという意味で、同じ三四郎の言動はわかるような気がします。三四郎の言動のなかから、忘れ去ってしまった、かけがえのない青春時代のなにかを思い出そうとして、繰り返し読んでいるのかもしれません。

小説の舞台である本郷の近くに住んでいたので、三四郎が歩きまわる町名もなつかしさを募らせてくれます。



今回読んでみて、三四郎の気持ちはより分かってきましたが、里見美禰子の方には、さらに謎が深まりました。

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