現代語訳『三州奇談』 その8「祭礼申楽」


現代語訳『三州奇談』 その8「祭礼申楽


 



堀麦水の『三州奇談』は、近世中期に成立した加越能の奇談集である。今回は、「祭礼申楽」(巻之五)の現代語訳である。


「祭礼申楽」は、藩政初期のころの、一枚の能面にまつわる奇談である。


 また金沢城下の、町の成り立ちについても言及している。






「訳」


藩主にとってまつりごとは重要なことである。それがうまくいっている加賀藩は町が開らけ上下相和して、めでたく繁栄する都会である。その中でも卯辰山観音院は城の東の岡にあり、霊験めでたく景色も素晴らしく、城下の人々は日夜参詣し、仕合せを感じている。



加賀藩三代藩主、前田利常の二男千勝君の母親は、二代将軍徳川秀忠の次女・珠姫(天徳院)であったので、城下の人々は心より厚く敬っていた。


この千勝君が元和三年(一六一七)十一月一日、卯辰山観音院境内の山王権現に宮参りした。このとき観音堂の縁に上って休まれたが、その時は四歳だった。のちに富山藩の藩主となったのがこの方である。



この宮参りのときには多くの町人たちも参詣した。その様子を観音堂からご覧になって千勝君はことにご機嫌うるわしかった。その際お相手をするためお側にあがって、謡をうたう子供もあったということである。



千勝君はこのようにご満悦の様子で帰館されたので、観音院をはじめ町中の人々はことのほか畏れ多いことだと喜んで、翌二日と三日にも祝賀として町人などが集って囃子を興行した。するとお城でもその行事に満足され、餅米二十俵、小豆三俵を下賜された。

これが今に伝わる観音院神事能の始まりなのである。



この能は翌元和四年から毎年四月一日、二日と定まって観音院能という名前となり、すべて町役が世話をして、藩内に自由に見物してもよいと触れを出した。能太夫は波吉と諸橋の両家がつとめることになった。そのほか町内からも能に堪能なものが、扶持米を賜って役者として加わった。


ところでこの能は、藩の守りの役目を果たすようになり、都合により延期になった時には、藩主に必ず凶事が起きた。何が起きたのか、その一つ一つはここでいうべきことではない。




演じられる能は両日ともに翁三番叟である。この時つける翁の面にまつわる奇怪なことがあったのである。それはこんなことであった。



能登国諸橋村に正直な父母と娘がおり、娘は孝行者であった。三人は明泉寺の観音を信心して、いつも参詣に訪れていたが、そのころ海の沖に夜な夜な光る不思議のものがあった。


ある晩この夫婦の夢枕に、明泉寺の本尊が立ってこういわれた。汝らはこの国の始まりを知らないだろうがと、かの比叡山開闢の由来からねんごろにお告げになった後、さらにこう言われた。


この寺の薬師如来は行基菩薩がお彫りになったのだが、そなたの娘はこの像に前世の因縁があるのだ。この仏を娘に与えてやりなさい、そうすれば五年後には結婚し、八年後には男の子が生まれてくる。さらにあの波の上の光り物は白髭明神なのであり、東方の浄瑠璃世界の主である薬師如来に会おうとしてやってきたのである。お前はすぐに娘を連れて尊像を抱いて海辺に行きなさい、一心に拝めば必ずご利益がある。

ここまで話を聞いたところで夫婦は夢から覚めた。






父と子は夢の教示を語りあい大いに驚いて、夢告に従って暁の海岸に下りて、遥かな沖に向かって伏し拝むと、例の光りものは近づいてきて一つの岩にたどり着いた。それは赤々と光り輝き、妙なる声で光りつつ謡を謡っていた。父と子が波に浸って近づいてみると、それは一つの翁の能面であった。これはきっと霊夢の賜物に違いないと、ありがたいことだと涙してその面を抱いて家路につき、明泉寺にも詣でて、奇特を喜んだ。



このことがあった後、諸橋村に泉州堺の大家、薬種商小西次郎兵衛というものが、薬種を求めてやってきて、この家に泊まった。前世からの因縁だろうか、毎年この夫婦の家を宿としているうちに、互いに親しみあうようになった。娘は当時十七歳、みめ麗しく、容姿は鄙にはめずらしかった。


やがて小西はめでたく娘と結婚し金沢城下に出て尾張町に住まいし、小西は高岡屋次郎兵衛と名乗り商いをした。父母は、かの薬師像と「溜息の面」(謡う翁の面)を引き出物として与えた。



間もなく次郎兵衛夫婦には男子が生まれ、この子が成人して跡を継いだのち、二人とも仏門に入り、それぞれ道善・妙音尼と称し、長生きして大往生をとげた。あとを継いだ二代目の次郎兵衛も子に商いを譲って隠居し、宗斎と称した。


宗斎は藩主の厚いご恩のを賜り、徐々に栄えて巨万の富を手にしたので、その後、ご恩に報いようとあの溜息の面を献上したところ、藩主はたいそう喜ばれた。そして藩主は、おぬしの欲しいものがあれば何なりと申し出よといわれた。


宗斎は家に伝わる薬師の霊仏を安置し、父母を追善するため一寺を建立したいとお願いした。これを聞いた藩主はその心がけをほめたたえ、すぐに卯辰山麓に寺地三千歩を与えられた。



宗斎は大いに悦んで寺を建立し、すぐに京都の清浄華院に出かけ、寺号をいただくことと、開山となるべき僧侶を下されたいとお願いした。院主はその場で、それでは父の法名をとって善導寺、母の号をとって妙音山としたらよかろうといわれた。こうして薬師如来を本尊とする山寺・妙音山善導寺が建立されたのである。


こうしたことが藩主の耳に入ったのでたいそう悦ばれ、畏れ多くも勅裁をもって寺号・山号の額をくださった。

こうして宗斎の望みは達せられ、この寺に父母の像を安置して、寺の名は世に知られるようになった。

そして藩主はかの能面を能楽師の波吉某お預けになられたので、いよいよ名声が高まり、その名を諸橋小西と呼ぶようになった。




ところで卯辰山の呼び名だが、城の東にあたるのではじめは東山といっていたが、寺が多くあるなど京都とまぎらわしいので、城からみた方角によって卯辰山と呼ぶようになった。


城下の町を尾山八町と呼ぶのは佐久間盛政の時代からで、それは西町、堤町、南町、金谷町、松原町、安江町、材木町、近江町である。

尾張町は天正十一年、初代藩主前田利家が金沢に入った時、尾張荒子から付き添ってきた御家人を住まわせたところで、前田家がつけた名であるが、ほかの国から来たものも住んでいた。すなわち小西次郎兵衛もこの尾張町に住居を構えていたのである。


さらにこの辺りには他郷のものが多く住むようになってきたので、付近に新町や今町という町名ができたが、これらは尾張町からでた町名なのである。



金沢では寺社が栄えているが、これはひとえに仏の霊妙な力によるものとはいえ、やはり藩主が目をかけて下さるお蔭によるものだと、人々はそろって藩主を褒めたたえていた。



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