兼六園 伝説の手水鉢



  兼六園 伝説の手水鉢



 兼六園の一角に、将軍の姫が加賀藩主に嫁いだ際、同行した人々が江戸町をつくった。この場所近くの手水について、藩主と彫刻師の間に交わされた興味ある話がある。

 江戸時代に、この付近に後藤程乗という金工師の屋敷があった。

 京都の後藤家は、祐乗を祖とする金工の宗家であり、室町時代・足利義政のころに興った。足利氏・豊臣氏・徳川氏と、常に権力に結びついた、いわゆる将軍家のお抱え工であった。

 程乗は京都と金沢を行き来して仕事をしており、加賀藩に仕えたのは、寛文年間(一六六一~一六七二)で、加賀藩五代藩主前田綱紀の時代で、江戸町近くに屋敷を拝領した。

 この屋敷の近くに瓢池があり、そこに現在も夕顔亭がある。その露地に邯鄲手水鉢があり、それは表面の中心に高士酔臥を彫りだしたものである。程乗が蓮池亭にいたときの作といわれ、現在に伝わっている。

 この手水鉢には面白い話が伝わっている。ある時綱紀が程乗に対し、「お前が彫刻する材料は、金属に限られているか」と聞くと、程乗はこの奇問に面くらい「私は金工なので、金銀銅だけを彫っています」と答えた。
 
 それに対し綱紀は、「それは不便なことである(それしかできないのか)」と笑った。
程乗は恥じ入り、とっさに「かりそめにも彫刻師と名乗る以上、石であろうが、鉄・竹だろうが、どんな素材でも彫刻できるはずです、仰せのままに彫刻します」と答え直したという。

 綱紀は「そうでなくてはならない。ならば石の手水鉢を彫ってみよ」と命じられた。程乗がこの難題に気力・手腕をふるって彫り出したのがこの手水鉢であり、石工がつくったものとはひと味違う、天下一品のできばえとなった。

 藩主のユーモアをまじえた、無理な提案に対し、程乗がその意向に懸命に応えようとする光景がみえる。
 ここには、専門外の石から名品を造りだした程乗の名人技を讃えるとともに、藩主と工人の上下関係のひとこまが垣間みえる。殿様は冗談で、無理難題をいってみたのである。

 この話が伝わったのは、程乗に対する綱紀の信任が厚かった証左であろう。

「後藤程乗度々御国へ罷越、大かた毎日御伽に罷登申候」(「松雲公御夜話追加」)と藩主綱紀が書き残しており、程乗は毎日のように登城していたのである。

 加賀藩5代藩主、前田綱紀の手記にはこのようなエピソードがいくつも記されているのである。現在読んでも結構おもしろい話である。

これも『三州奇談』読んでいる際に出会ったことである。



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