ブログ版 『三州奇談』を読む   「中代の若狐」-5

ブログ版 『三州奇談』を読む   「中代の若狐」-5


 中代狐と八ッ塚

 ここで「中代の若狐」の狐たちが活躍した舞台は、どのようなところかをみておこう。

 家僕が狐と遭遇した黒瀬は府城より約二キロ、中代は約四キロである(『加賀江沼志稿』)。黒瀬と中代は南郷村に属し、大聖寺川が村の中央を西に貫流し南は刈安山に連なる山地で、一帯は地味肥沃な田圃が開かれている。

 家僕が進んだ縄手は、大聖寺川が平野に出るところである。狐は背後に低い山地があり、人家に比較的近い場所に出没するので、狐の住みよい立地であった。

 そのためか、近辺には狐に関する小字が多く残されている。江沼郡の小字から狐の字のつくものを拾いだしてみた(辞典『角川日本地名大辞典』17石川)。

 ○福田村・狐塚、狐坂。 ○塩津村・狐の穴。 ○南郷村・八つ塚(仲代及び保賀)。
 ○山代村・八つ塚。 ○月津村・狐山、八つ塚、狐森塚。 ○庄村・塚松、狐塚。
以上のような狐名の小字が点在している。


 中代のある江沼郡は早くから開けた地域であり、古墳が数多く存在している。勅使村には法皇山横穴古墳群(六世紀~七世紀前半)、二子山古墳群とその盟主「狐山古墳」(五世紀後半)、片山津近辺にも片山津玉造遺跡(四~五世紀)や狐森塚がある。

 狐はしばしば古墳に棲みついており、狐たちにとってこの上ない環境であった。

 ところで、狐と塚、そして稲荷信仰との関連をみると、原野を開拓し、田畑を開発した段階で、田の神を守護神に祀りこめるふうがごく自然にあったとされる。古来、農民には「田の神」信仰があり、これが狐塚、稲荷信仰へとつながっていった。

 柳田国男は「自分などは狐塚を、もとは田の神の祭場だつたらうと思つて居る」(「狐塚の話」)とする。これは田の神から稲荷信仰への過渡的な姿をしめすものであり、田の神は「稲倉魂」、「宇迦御魂神」と習合していったのであろう。

 さて、中代狐が本拠地としたのはどこか。『石川県江沼郡誌』に、南郷村中代の「八ッ塚」の記事がある。

  本村字中代地内に在り。往古より八個の塚ありしを以て、世人評して八ッ
  塚と云へり。此の地は元と老樹鬱蒼とし昼なお暗く、加ふるに老狐多く棲
  息し、通行の人を魅すること、日としてこれなきは無く、村民為に恟々た
  るものありき。
  是に於てか向出某なる者村民と謀り、狐の為に一祀を造り、朱塗りの鳥居
  を建つ。故に一名狐塚とも言ひ、今日尚揚豆腐、鏡餅等の供物を捧ぐるも
  のあり。

 ここには八つの塚があり、木が鬱蒼と茂り昼も暗く、しかも老練な狐が多かったという。中代狐たちは少なくとも『江沼郡誌』が書かれた大正時代までは、人々と密接なつながりを保っていたのである。
 人々は狐の神秘的な挙動から、事の吉凶を占い、変事を読みとり、狐を祀りあげていたのであろう。

 この中代の八ッ塚こそが、中代狐の本拠地であった 。現在、八ッ塚には八つの塚はなく平地になっているが、稲荷の祠があり、正一位稲荷大明神と彫られた碑が立っている。
 中代町の東方・山側の大木のもと、富士写が岳を背にした社がある。


つづく




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