奇談の狐たち その3 狐火

    奇談の狐たち その3 狐火


『三州奇談』の「中代の若狐」、続きである。

 奇談に登場する狐はどのような姿を見せるのだろうか。そのなかでも人間にとって一番不思議なのは狐火ではなかろうか。


 狐火の正体は何だろうか。「中代の若狐」で、愚実な家僕は怪しい舞台のなか、提灯の灯から狐火を連想した。
 
 狐火とは、「闇夜、山野に出現する怪火」であつが、狐が火をともすという俗信は「宇治拾遺・狐家に火をつくる事」をはじめとして、古くからあったのである(『日本国語大辞典』)。
 

 狐火でもっともよく知られているのは、「王子の狐火」である。大晦日の夜、江戸郊外の王子の稲荷神社の装束榎の下に狐が集まり、狐火があらわれ周りが明るくなったといわれる。
 人々は狐火の明暗で翌年の豊凶を占った。狐は農耕神として稲荷となっていったのである。
 

 この狐火を人々はどのように受けとめていたのだろうか。
「もし夜行すれば、忽ち野火を見る。青く燃えるのは狐尾が火を放っているのである」(『本朝食鑑』)、「尾を撃ちて火を出だす」、「其ノ口気ヲ吐ケバ火ノ如シ」(貝原益軒『大和本草』)、「狐火は、その口火を吐くと言ヘリ」(『日本古典博物事典』)などとしている。狐のどの部位が光るかについて、前者は尾であるとしており、後者は口だとしている。
 
 また狐が火を吹くのは、人の髑髏、馬の枯骨、土中の枯れ木を食べるからだとするものや(『本朝食鑑』)、「馬の血は狐火となり、人の血は野火、すなわち鬼火となる(『列氏』)」とするものがある。双方に馬がからんでいるのが注目される。
 

 以上とは別に、狐火を点景としてとらえるものがある。『和漢三才図会』は、「蛍火は常にみるものであり、狐火もまたまれではない」とし、「大体小雨降る闇夜で人声のないとき燐火は出現する。みな青色で焔はない」と続ける。


『菅江真澄遊覧記』には、海辺の方向に飛ぶ鬼火をみて「狐火でしょう、いつも狐が火を消したり点したりする浜路の野良の塚原です」、『西遊草』は「昨夜向こうの山に狐火があって山全体が明るくなり、奇妙であった」と、狐火は怪異というより、田舎ののどかな夜景のひとつとしてとらえている。
 

 さらに「大聖寺怪談録」には大聖寺の狐火がでてくる。竹内宅右衛門が夏の夜涼みで、田の畔に腹ばいになって見ていたが、畑の火ではなく狐であった。「彼の狐尾を直に立ててふりければ、其尾の先より火のごときもの出で、其辺り明らかに見えたり。其様子を考へしに、其光りにていなごをとり食ふなるべし」と、イナゴを食べるためだとの見方をしているのが面白い。
 

 狐火は各地で頻繁にみられたが、狐は不可解で怪異をなす妖獣であるという一面が常にその底流にある。夜の暗さの中の狐火は、人々の想像を刺激し空想をふくらませたであろう。「中代の若狐」の家僕たちは、狐火が出て化かされそうな雰囲気の中で正体を見破った。
 時は十八世紀、近代へのめざめの時期であった。

 狐火には何がしかの夢があり、目にしてみたいほどの怪異のひとつである。


 なおタイトルの「若狐」とは、未熟な狐という意味合いである。狐は100年も200年も経たベテランの技が最上級で、いろんな化け方をするのが上手いとされている。

『三州奇談』には、間抜けな狐から稲荷として崇められる狐まで、多様な狐の姿が描かれている。尻尾をだす狐は珍しい。

 奇談の狐たちは、ひとまず終りとする。





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