加賀藩 鷹狩りの裏方

 加賀・能登・越中の『三州奇談』には、鷹狩りについての話がいくつかある。藩主が好んで鷹狩りをしたのをはじめ、お許しの出た重臣も独自で行った。

 鷹狩りとはどのようなものであったか。加賀藩を例に、その裏方の部分をみておこう。

 鷹狩りは徳川家を筆頭に藩主などが行い 、加賀前田家では初代利家はじめ、二代利長や三代利常が好んで行った。鷹狩りは武技を練るという軍事的な一面をもっていたが、将軍や大名の間で鷹や獲物の鶴の贈答が広く行われ、鷹が権力編成や外交に役割を果していた。

 鷹狩りは、将軍や藩主など限られた者だけができたが、加賀藩では三千石以上の藩士に許可されていた 。鷹狩りは訓練した鷹(鷲・隼)を用いて鳥獣を捕獲するものである。

 人・鷹・犬が一体となり、秋から冬を中心に行われ、捕獲するのは鶴をはじめ鷺、雁、鴨などの鳥類にくわえ、狐、狸、野兎もその対象となったのである。鷹狩りの際、鶴などの鳥だけでなく狐も標的となったが、捕らえられそうになった狐に情けをかけて逃がしてやった侍の話もある。

 鷹狩りは藩主や上級武士だけに許された特別な行事であった。したがってこれに従う者のなかには、重臣の特権をかさにきて、農民などに横柄で乱暴な行動をする者がみられた。

 藩主は複数の鷹部屋で飼い、管理は鷹匠が請け負った。鷹の餌として小鳥が必要だが、それは餌指役が行い村々で行っていた。
 
 鷹狩りに関係する係の者たちには、餌差役のほか、鷹匠、鷹匠役足軽、御鳥見(狩場の鳥のようすを確認する者)、鷹狩りに同行する犬を連れた者達がいた。これらのものが乱暴な行動をするため、これらに注意を与える文書も残されている。

 餌差役(えさしやく)は、鷹の餌を調達する下級の係であった。彼らは村の畑やその近くに網を張って小鳥を捕えたが、その際、主人の権力をかさに着て作物までを踏み荒らすことがあった。こうした餌差役の行動を禁止する文書がある。元禄8年(1695)当時の餌指役は14人であった。

 藩主は複数の鷹部屋で飼い、管理は鷹匠が請け負った。鷹の餌として小鳥が必要だが、それは餌指役が行い村々で行っていた。それだけでは必要分には足りず、大坂などから輸入していた。その方が値段が安かった。

 このように鷹狩りに関係する係の者たちは、村々で横暴な行動を行っていたようである。餌差役のほか、鷹匠、鷹匠役足軽、御鳥見(狩場の鳥のようすを確認する者)、鷹狩りに同行する犬を連れた者達が乱暴な行動をするため、これらに注意を与える文書も残されている。

 また村には藩から任命された鳥見役がいた。彼らは村内の鳥のようすを把握する一方、鷹狩りの際の案内役をした。せっかく藩主が鷹狩りに出かけても猟が少なければお咎めを受ける恐れがあった。

 稲が実りだす期間に年寄(加賀藩では家老の上)に対し、鷹狩りを禁止するよう命じた文書がある。鷹狩りによって稔った稲が荒らされるからである。
秋は鷹狩りのシーズンで、実際に田んぼが荒らされ、百姓からの懇願があったものと思われる。またそうした禁令にお構いなく、鷹狩りが横行したこともうかがえる。

 このように鷹狩りは藩主や重臣が行っていたのだが、それを担当する係が数多くいたのである。それらの者は、思い違いをしてたびたび乱暴を働いていたことがわかる。一見華麗にみえる鷹狩りだが、その裏では人間らしい葛藤があったことが古文書から分かるのである。
(「武家と鳥」展 金沢市立玉川図書館近世史料館)。

徳川家と前田家の鶴の贈答を研究する分野があるとともに、鷹狩りを根本部分で支える人たちの人間臭い生きざまを観察することも、鷹狩り研究は含んでいるのである。




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